2014年
10月
22日
水
以前に「永島孟斎って誰?」というタイトルでブログに記したことがあるが、その内容を抜粋すると、
永島孟斎を名乗る絵師が2人いる。歌川芳虎と永島乕重は別人であるが、ともに永島孟斎を名乗ったことがある。芳虎が師匠か父兄、乕重が弟子か子弟という関係だ。芳虎は絵師として活発に活動したが、乕重は玩具絵などにとどまり、むしろ、絵師というよりは企画者として記事を書いていた。二人を呼び分けるには辰五郎孟斎と福太郎孟斎、孟斎芳虎と孟斎乕重、須田町の師匠と神田紺屋町の弟子、といった呼び方。
西南戦争錦絵でこれまで紹介してきた作品の中に永島孟斎作品は12作品あるが、すべて、歌川芳虎つまり辰五郎孟斎芳虎(須田町の師匠)の作品であり、中に数点、弟子の福太郎孟斎乕重が文章を添えたものがある。
早稲田大学の古典籍データベースを見ると永島福太郎が文章を書いている例が5件ある。全部、永島福太郎録・加賀吉板・永島孟斎画となっており、弟子の文章に師匠が絵をつけたようだ。師匠の作画期は弟子は孟斎を名乗っておらず、福太郎という名前で活動していた。
今回(2014/10/22)永島春暁が弟子の方の永島孟斎つまり永島福太郎孟斎乕重であることがわかったので、福太郎孟斎乕重の初見の作品ということになる。日清戦争錦絵の中でも初めての永島孟斎となる。そして、やはり錦絵というよりは百科事典のような一覧図であった。やはり、乕重は絵師というよりは、企画者としての色彩が濃厚なようだ。