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2013年ブログ

2013年

9月

25日

8月の追加

西南戦争錦絵美術館に以下の三作品を追加した。

 
 昨日9月24日は西郷隆盛の命日。「八重の桜」でもその日にあわせて、西南戦争を持ってきていた。それにしても、前線にはほとんど出ていない西郷が山川浩と出会って「維新からの士族の恨みを自分が全部抱いていく」という趣旨の事をいわせるのは、ドラマとはいえ、違和感があった。抜刀隊の結成以前に戦死しているはずの佐川官兵衛が抜刀隊創設に関わるくらいだから、フィクションとして見過ごすしかないのだろうか。西南戦争錦絵美術館では何をどのように伝えたか、そして、人々は何を知りたがっていたか、また、誤報は修正されていったのか、といった、報道の側面もきっちりと検証していきたいと考えている。(少しずつだが)



右側中段中央あたりに山川浩の名がある。

 

 
西南戦争錦絵美術館では山川浩の名は「S004 鹿児嶋戦場名覧」(上図)の中に登場する。当時出仕していた、青森からの陸軍中佐とある。佐川官兵衛の名は無い。

 

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2013年

7月

23日

6、7月の追加。

西南戦争錦絵美術館に以下の6作品を追加した。

S046暴徒川尻本陣図

 村井静馬の4作品と早川松山および松山の師匠の河鍋暁斎の作品である。
 村井静馬(歌川房種)の作品は、静岡県立中央図書館では「おもちゃ絵」というジャンルに分類しており、大判1枚の中に、3枚ないし4枚の絵が並んでいる。(前月とりあげた「S040鹿児嶋戰争の図」では、8分割されている。)画題は、他の西南戦争錦絵と変らないが、線や色づけなど全体に雑で、悪い意味での子供向けという感が横溢している。より細分化して、面子(メンコ、紙製)につながっていくようなデザインでもあるが、それはボール紙が普及する1900年以降のことになるらしい。
S041西南戦争4図

 村井静馬はウィキペディアによると、「江戸時代末期から明治時代にかけての浮世絵師。 歌川貞房の門人。姓は村井、名は静馬。歌川を称す。桜斎、一笑斎、一瓢斎などと号す。安政(1854年 - 1860年)から明治30年(1897年)頃まで活躍した。幕末には『近江八景』などの風景画の他、芝居絵、源氏絵シリーズなどを描いた。明治に入って『東京名勝』などの開化風俗画、西南戦争関係の錦絵、その他に小説、新聞の挿絵を描き、明治の初年には戯作も手がけている。」(後略)とある。西南戦争錦絵の頃には既にベテランの絵師であったわけだが、この頃までには絵師としてだけでなく筆者、編集者などとしても活躍している。
 編者として関係したいくつかの作品の奥付には長崎県士族とあるが、長崎県を構成する藩には佐賀藩、島原藩(島原半島)、大村藩(彼杵地方)、平戸藩(松浦半島・平戸島・壱岐)平戸新田藩、福江藩(五島列島)、対馬府中藩(対馬)、佐賀藩家老の諫早陣屋、交代寄合の五島家の富江陣屋、天領(長崎)と多数あったようで、その中のどの藩の出身かは定かでない。
 小森宗次郎、辻岡文助、浦野朝衛門、延寿堂などの出版人との活動が多い。新聞錦絵や写真などメディアの改革が進行中の明治初期にあって、絵師としてだけでなく、編集者、筆者として活動しなければならない必然性があったのかもしれない。再びウィキペディアから引用すると、「珍しい作品では、明治16年(1883年)の『金環蝕の図』、明治20年(1887年)の『日食之図』といった天文現象を扱った報道画が挙げられる。」とあるが、これなどは子供向けの参考書に絵入りで解説を加えていたわけで、そういう知識にも接していく最前線にいたことがうかがえる。旺盛な活動力を持った、器用な知識人といったところだろうか。以下に国会図書館所蔵品の中から拾いあげた作品リストをお示しする。

            村井静馬作品リスト

出版年

タイトル

名義

出版

1854

三井晩鐘(他 全八景)

房種

森治

1861

東都名物遊覧双六

房種

海老林

1862

四季之遊覧

房種

加賀屋吉右衛門

1862

東都両国の夕涼

房種

藤慶

1876

絵本・徳川軍記

村井静馬

小森宗次郎

1876

絵本・新聞噺

村井静馬

小森宗次郎

1876

お伽噺・文福茶釜

村井静馬

小森宗次郎

1876

お伽噺・桃太郎噺

村井静馬

小森宗次郎

1876

お伽噺・狐の嫁入

村井静馬

小森宗次郎

1876

小学帖

村井静馬

山村金三良

1876

徳川戦記

村井静馬

小林宗次郎

1877

鹿児嶌紀聞

房種

辻岡文助

1877

鹿児島紀事

村井静馬

綱島亀吉

1877

鹿児島紀事

村井静馬

綱島亀吉

1877

鹿児島戦争日記

村井静馬

辻岡文助

1878

西郷隆盛一代記

村井静馬

浦野浅右衛門

1878

大晦日盛衰振分双六

房種

綱島亀吉

1880

絵本・小倉山青樹栄昔日新話

房種

延寿堂

1880

絵本・鼠裱甲子真聞

房種

延寿堂

1880

西遊庚申通夜譚

房種

栄光堂

1880

新版古今名婦双六

房種

綱島亀吉

1880

明治太平記

村井静馬

延寿堂 

1881

月雲雁玉章

房種

青盛堂

1881

幻お竹噂の聞書

房種

島鮮堂

1882

役者教訓妙々奇談

房種

栗園

1883

新古侠客英名伝

村井静馬

榎本直衛

1884

絵本・児雷也豪傑物語

房種

岡田伴治

1884

絵本 橋供養梵字の文覚

房種

岡田伴治

1884

三国妖婦伝

村井静馬

高橋暙

1884

新古侠客英名伝

村井静馬

風月庄左衛門

1884

大日本古今名婦鏡

村井静馬

海寿堂

1884

和漢英勇鏡

村井静馬

関根幸助

1884

和漢英勇比較

村井静馬

清和堂 小宮山五郎

1884

村井長庵札の辻雨夜の濃紅

房種

紅木堂

1885

三国妖婦伝

村井静馬

高橋暙(しゅん)

1886

絵本・八百屋於七噂の立額 

村井静馬

小森宗次郎

1886

絵本・水天宮御霊験記

村井静馬

小森宗次郎

1886

絵本・源平盛衰記

村井静馬

小森宗次郎

1886

新古侠客英名伝

村井静馬

風月庄左衛門

1887

明治新選番匠秘事雛形

村井静馬

順成堂

不明

今様源氏紀伊和歌の浦風景

房種

古代江戸絵集

不明

しづか 岩井半四郎・忠信 中村芝翫

房種

辻亀

不明

六 蚕養草種おろし

房種

辻亀

 
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2013年

6月

08日

静岡県立中央図書館5月追加分

 静岡県立中央図書館所蔵の作品から以下の3点を追加した。

 
 中でもS038は大英博物館蔵B008および国立国会図書館蔵D109の異刷であるのだが、その2枚と全く同じ絵というわけではなく、大胆な改変が行われていた。詳しくはS038薩州鹿児島征討記之内県下ノ兇賊等肥後熊本旧城下を攻撃シ官軍応戦之図のページをご覧下さい。
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2013年

5月

01日

静岡県立中央図書館所蔵作品4月追加分

4月分として、以下の3点を西南戦争錦絵美術館に追加した。

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2013年

2月

24日

永島孟斎って誰?

 「S030鹿児島戰記之内(静岡県立中央図書館のタイトルは鹿児島戰記之内都城籠城)」(画・楊洲周延)の記事を書いている永島乕重(ながしまとらしげ)について調べたところ、面白い事がわかってきたので書き留めておきたい。まず、同じ作品の異刷と見なして良いであろう国会図書館蔵「u020鹿児島戦記之内 〔賊軍都の城に篭りて評議の図〕」においては、この乕重の詳細が確認できていないため館内限定公開にとどめているらしい事がある(筆者の想像、国会図書館には未確認)。そして、同様に乕重が確認できず、館内限定公開にとどまっている作品が、他に「u016鹿児島暴徒激戦之図」(画・永嶋孟斎)、「u019〔賊軍より奪いし弾薬箱より賊兵出でる図〕」(画・楊洲周延)の二作品あり、乕重の事がはっきりすれば公開を呼びかける事ができそうな作品が、都合三作品あるという事だ。いずれも、文章家として名前が挙がっており、記事の作者のようである。公開されている作品としては西南戦争錦絵美術館の中に「D099鹿児島縣士族大山綱良護送之圖」があり、記事の末尾に「 小生 永島乕重(ながしまとらしげ) 記」というサインがある。画は永嶋孟斎である。

館内限定公開の画面
 浮世絵文献資料館で永島乕重を検索しその記事をまとめると「乕重(とらしげ)は慶応から明治20年代までの浮世絵師。永島福太郎、孟斎、竹林舎。神田紺屋町に住む。玩具絵、遊戯を得意とする。芳虎の門人か子弟。」という事である。ここででてきた、永島福太郎・孟斎という名前と号に注目していただきたい。これまで永島孟斎は歌川芳虎の事だと考えてきたからだ。歌川芳虎をウィキペディアの記事などからまとめると、「芳虎は一猛斎、孟斎、錦朝楼、永島辰五郎、辰之助、辰三郎。国芳の門人。作画期は天保(1830-1844)から。明治元年絵師番付2位。没年は不明であるが明治21年(1888年)頃、死去したと考えられる。国芳とは不仲になり破門されている。須田町四番地に住んでいた。」となる。どうも、永島孟斎を名乗る絵師が2人いるという事になりそうだ。つまり芳虎と乕重は別人であるが、ともに永島孟斎を名乗ったことがあるという風に考えられる。芳虎が師匠か父兄、乕重が弟子か子弟という関係になりそうだ。芳虎は絵師として活発に活動したが、乕重は玩具絵などにとどまり、むしろ、絵師というよりは企画者として記事を書いていたのではないだろうか。二人を呼び分けるには辰五郎孟斎と福太郎孟斎、孟斎芳虎と孟斎乕重。須田町の師匠と〇〇町の弟子、といった呼び方であろうか。
 
 西南戦争錦絵でこれまで紹介してきた作品の中に永島孟斎作品は12作品ある。西南戦争錦絵は御届印とともに、絵師又、出版人の住所が刷り込まれている。また他にも絵師のサインなど、情報は豊富にあるので、それを見てどちらの孟斎か判断してみよう。12作品中、須田町が8作品、松川町が2作品。絵師情報なしが2作品となっている。住所のある10作品はすべてが「ながしましんごろう」作品なのでこの10点は確実に師匠の作品であるといっていいだろう。残りの2点は「041田原坂の大戦争」「D100肥後熊本暴徒記」であるが、永嶌孟斎画とのサインがあるだけなので、サインを比較してみることが必要となる。下図を見ていただいたらお分かりのように同一の作者と判断して間違いなさそうだ。よって西南戦争錦絵の画像は、すべて、歌川芳虎つまり辰五郎孟斎芳虎(須田町の師匠)の作品であり、中に数点、弟子の福太郎孟斎乕重が文章を書いたものがある、という事になる。これまでのところ、福太郎孟斎乕重の画は未見である。
 
040西郷涅槃像はサインはなく、絵師 情報のみ。
041とD100の2作品と他のサインは非常に良く似ている。


 早稲田大学の古典籍データベースを見ると永島福太郎で文章を書いている例が5件(注釈1)ある。その中で、「鹿児島戦記.後編/永島福太郎 録;永島孟斎 画(歌川芳虎)」は全10集の絵入りの本であるが、シリーズタイトルは絵本 鹿児島戦記・東京書肆 青盛堂版 となっており、発行者の個人名はない。後編は各冊16頁に仕立てられ、すべてが絵入りの文章(墨刷り)に色刷りの表紙がついた体裁となっている。全部、永島福太郎録・加賀吉板・永島孟斎画となっており、弟子の文章に師匠が絵をつけたようだ。常識的に考えて、師匠の作画期は弟子は孟斎を名乗っておらず、福太郎という名前で活動していたのだろう。
 
注釈1

開化一口ばなし / 永島福太郎 編著
[開化一口ばなし]. 初号/ 永島福太郎 録 ; 竹林舎虎重 述
開化新作度々逸. 1,3-4 / 永島福太郎 著 ; 永島辰五郎 編輯・画
鹿兒島戦争日記. [前],後編 / 櫻齋 [編] (歌川房種、辻岡文助)
鹿児島戦記. 後編 / 永島福太郎 録 ; 永島孟齋 畫(歌川芳虎)
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2013年

2月

24日

永島孟斎って誰?


 「S030鹿児島戰記之内(静岡県立中央図書館のタイトルは鹿児島戰記之内都城籠城)」(画・楊洲周延)の記事を書いている永島乕重(ながしまとらしげ)について調べたところ、面白い事がわかってきたので書き留めておきたい。まず、同じ作品の異刷と見なして良いであろう国会図書館蔵「u020鹿児島戦記之内 〔賊軍都の城に篭りて評議の図〕」においては、この乕重の詳細が確認できていないため館内限定公開にとどめているらしい事がある(筆者の想像、国会図書館には未確認)。そして、同様に乕重が確認できず、館内限定公開にとどまっている作品が、他に「u016鹿児島暴徒激戦之図」(画・永嶋孟斎)、「u019〔賊軍より奪いし弾薬箱より賊兵出でる図〕」(画・楊洲周延)の二作品あり、乕重の事がはっきりすれば公開を呼びかける事ができそうな作品が、都合三作品あるという事だ。いずれも、文章家として名前が挙がっており、記事の作者のようである。公開されている作品としては西南戦争錦絵美術館の中に「D099鹿児島縣士族大山綱良護送之圖」があり、記事の末尾に「 小生 永島乕重(ながしまとらしげ) 記」というサインがある。画は永嶋孟斎である。

 浮世絵文献資料館で永島乕重を検索しその記事をまとめると「乕重(とらしげ)は慶応から明治20年代までの浮世絵師。永島福太郎、孟斎、竹林舎。神田紺屋町に住む。玩具絵、遊戯を得意とする。芳虎の門人か子弟。」という事である。ここででてきた、永島福太郎・孟斎という名前と号に注目していただきたい。これまで永島孟斎は歌川芳虎の事だと考えてきたからだ。歌川芳虎をウィキペディアの記事などからまとめると、「芳虎は一猛斎、孟斎、錦朝楼、永島辰五郎、辰之助、辰三郎。国芳の門人。作画期は天保(1830-1844)から。明治元年絵師番付2位。没年は不明であるが明治21年(1888年)頃、死去したと考えられる。国芳とは不仲になり破門されている。須田町四番地に住んでいた。」となる。どうも、永島孟斎を名乗る絵師が2人いるという事になりそうだ。つまり芳虎と乕重は別人であるが、ともに永島孟斎を名乗ったことがあるという風に考えられる。芳虎が師匠か父兄、乕重が弟子か子弟という関係になりそうだ。芳虎は絵師として活発に活動したが、乕重は玩具絵などにとどまり、むしろ、絵師というよりは企画者として記事を書いていたのではないだろうか。二人を呼び分けるには辰五郎孟斎と福太郎孟斎、孟斎芳虎と孟斎乕重。須田町の師匠と〇〇町の弟子、といった呼び方であろうか。

 西南戦争錦絵でこれまで紹介してきた作品の中に永島孟斎作品は12作品ある。西南戦争錦絵は御届印とともに、絵師又、出版人の住所が刷り込まれている。また他にも絵師のサインなど、情報は豊富にあるので、それを見てどちらの孟斎か判断してみよう。12作品中、須田町が8作品、松川町が2作品。絵師情報なしが2作品となっている。住所のある10作品はすべてが「ながしましんごろう」作品なのでこの10点は確実に師匠の作品であるといっていいだろう。残りの2点は「041田原坂の大戦争」「D100肥後熊本暴徒記」であるが、永嶌孟斎画とのサインがあるだけなので、サインを比較してみることが必要となる。下図を見ていただいたらお分かりのように同一の作者と判断して間違いなさそうだ。よって西南戦争錦絵の画像は、すべて、歌川芳虎つまり辰五郎孟斎芳虎(須田町の師匠)の作品であり、中に数点、弟子の福太郎孟斎乕重が文章を書いたものがある、という事になる。これまでのところ、福太郎孟斎乕重の画は未見である。


 早稲田大学の古典籍データベースを見ると永島福太郎で文章を書いている例が5件(注釈1)ある。その中で、「鹿児島戦記.後編/永島福太郎 録;永島孟斎 画(歌川芳虎)」は全10集の絵入りの本であるが、シリーズタイトルは絵本 鹿児島戦記・東京書肆 青盛堂版 となっており、発行者の個人名はない。後編は各冊16頁に仕立てられ、すべてが絵入りの文章(墨刷り)に色刷りの表紙がついた体裁となっている。全部、永島福太郎録・加賀吉板・永島孟斎画となっており、弟子の文章に師匠が絵をつけたようだ。常識的に考えて、師匠の作画期は弟子は孟斎を名乗っておらず、福太郎という名前で活動していたのだろう。
 
注釈1

開化一口ばなし / 永島福太郎 編著
[開化一口ばなし]. 初号/ 永島福太郎 録 ; 竹林舎虎重 述
開化新作度々逸. 1,3-4 / 永島福太郎 著 ; 永島辰五郎 編輯・画
鹿兒島戦争日記. [前],後編 / 櫻齋 [編] (歌川房種、辻岡文助)
鹿児島戦記. 後編 / 永島福太郎 録 ; 永島孟齋 畫(歌川芳虎)
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2013年

2月

16日

国会が駄目なら静岡があるさ!

S030鹿児島戰記之内


 
 静岡県立中央図書館より1月の作品として以下の三点を追加した。


S029鹿児島城戰争之圖
 S030鹿児島戰記之内は静岡県立中央図書館のタイトルでは「鹿児島戰記之内都城籠城」となっているが、画中タイトルは鹿児島戦記之内までなのでそれに従った。記事中に「都の城に篭りし処」という文言がある。この作品は国会図書館館内限定公開資料の「鹿児島戦記之内 〔賊軍都の城に篭りて評議の図〕」の異刷かもしれない。タイトル、絵師、文、出版者、名札は同一で、ほぼまちがいないと思われる。館内限定公開資料は著作権の継承・放棄が確認できていないためウェブ上には公開していない作品で、国会図書館内でのみ見ることができる作品である。西南戦争錦絵では21作品ある。(一覧リストはこちらをご覧下さい。)こういう形で、他の施設で見ることができるのも印刷物という形態で売られた、本物が複数存在するという錦絵の大きな特色である。

S030鹿児島戰記之内
S031日向霧嶋山激戰之図

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