水野 年方 みずの としかた
115 清國北洋艦隊於威海衛全滅遂提督丁汝昌我海軍敵不能於官宅自殺圖
慶応2年1月20日(1866年3月6日) - 明治41年(1908年)4月7日)
明治時代の日本画家、浮世絵師。月岡芳年の門人。元の姓は野中、通称は粂次郎または粂三郎。 翁斎、蕉雪と号す。江戸、神田神社の氏子内・神田紺屋町の左官職の家に生れ、水野家の養子となった。明治13年(1880年)、14歳で月岡芳年に入門 し、浮世絵を学んだが、その後、一時山田柳塘に陶器画を学んで、薩摩陶器画工場、神村方の職工長となっている。年方は、16歳の時、父を亡くし、陶器の下 絵やビラ絵を描いて自立をしている。明治19年(1886年)、20歳の時、改めて芳年に師事し、また柴田芳洲に南画を学んだ。明治23年(1890年) に芳洲が没すると、渡辺省亭や三島蕉窓について南画、花鳥画を学び、有職故実も研究していた。
明治6年(1873年)頃から美人画を描き、明治20年(1887年)年頃からは『やまと新聞』に挿絵を描いて名を上げ、尾形月耕と並ぶ人気挿絵画 家となる。また、23歳か24歳の頃には日本青年画共進会に出品して認められた。年方は、「今様美人」のようなシリーズの他、風俗画を多く手がけ、芳年や 橋本周延の歌川派様式とは異なる、穏やかで気品のある独自の風俗画を打ち出した。また、日本美術協会、明治31年(1898年)の日本画会結成に参加し、 第1回展に出品した「佐藤忠信参館の図」は宮内省御用品となっており、年方は日本画会の評議員になった。同年、日本美術院の創設にも参加、特別賛助員に なっている。さらに、日本絵画協会第5回絵画共進会で褒状1等を受賞するなど、自ら日本画を出品し各種の展覧会で活躍した。翌明治 32年(1899年)には日本絵画協会第7回絵画共進会で「平忠度」が銅牌を、明治33年(1900年)の日本絵画協会第8回絵画共進会で「富峯」が同じ く銅牌を、明治35年(1902年)の日本絵画協会第13回絵画共進会で「橘逸勢女」が銀牌を受賞した。年方のこのような活動は、浮世絵師が時代とともに 町絵師から芸術家へと変わりゆく瞬間を示すものであった。
門下から鏑木清方、池田輝方、榊原蕉園らの美人画家の他、大野静方らの画家が輩出したが、年方自身は浮世絵派出身なりの武者絵などを手がけ、歴史人 物画家として活動していた。享年43。墓所は台東区の谷中墓地にあるが、管理する者もなく荒れ果て、無縁墓として撤去が危惧される。また、神田神社には顕 彰碑があり、こちらは千代田区指定文化財として指定されている。
作品
* 「三十六佳撰」 大判錦絵
* 「佐藤忠信参館図」 絹本著色 三の丸尚蔵館 明治31年(1898年) 第1回日本画会展
* 「岩清水」 絹本著色 東京国立博物館 明治40年(1907年) 日本美術協会展
水野 年方 2011年1月25日 (火) 14:47 (UTCの版)『ウィキペディア日本語版』。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B0%B4%E9%87%8E%E5%B9%B4%E6%
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黄色は異版、オレンジは参考作品、赤は注目作品を示す。
『084帝國赤城艦長阪本少佐奮戦』『099金州城攻撃工兵小野口徳治城門破壊図』は英語キャプションが入っている。
『052大日本帝國萬々歳 成歡襲撃和軍大捷之図』は「画伯米僊君、同金僊君、諸新聞社特派員」という具合に報道画家・記者が描かれている。