楊洲 周延 ようしゅう ちかのぶ
日清戦争錦絵 002 大鳥公使韓廷公参内之図
西南戦争錦絵
054鹿児島賊徒鎮静依諸将天盃頂戴之図
055西国鎮静諸将天盃賜ル図
056西国鎮静撫諸将賜天盃之図
057鹿児嶋暴徒引揚之図
058鹿児嶋征討記之内 〔西郷星出現之図〕
059鹿児嶋征討全記之内 〔吉次越にて官軍牛に悩まされる図〕
060鹿児島県下甲突川竹柵之図 〔賊徒の女軍川中の竹柵の縄を切る図〕
061鹿児島伝報記 甲突川戦争図 〔賊徒女軍船中にて奮戦〕
062日向霧嶋山激戦之図
063日向佐土原落城之図
064鹿児島軍記 御船激戦之図
065鹿児嶋戦記 〔木留、植木にて朝霧中の戦〕
066鹿児嶋戦争図会 〔八代港の戦〕
067鹿児嶋征討記聞 〔海陸より数万の官軍押寄女賊徒之を迎え討つ図〕
068鹿児嶋征討記聞 〔薩海近く乗込みし官軍の艦を隆盛等遠望〕
069都の城戦争之図
070西海暴動電信紀聞 〔神風連の輩種田政明少将の私邸を襲う〕
071鹿児島戦記 安政橋大合戦 〔前原一格の奮戦〕
072鹿児嶋征討紀聞 〔美々津川の戦〕
073鹿児嶋征討出陣図
074鹿児島新聞 太明神岡武山大戦争
075鹿児島城激戦ノ図 〔官軍城の橋を渡る〕
076鹿児嶋戦記 〔前原一格奮戦図〕
077鹿児島血戦之図 〔角力畳を楯に勇戦
078鹿児島戦記内 川尻酒宴図
079鹿児島賊将日向於中村遊興之図
080日向宮崎ニテ賊将遊興図
081鹿児島戦記 〔熊本城の戦〕
082鹿児島征討紀聞 〔賊徒の女隊図〕
083鹿児島勇婦力戦之図
084鹿児嶋征討記聞 〔賊徒の女隊共に船中にて奮戦の図〕
085鹿児嶋征討紀聞 〔賊徒の女隊船上にて奮戦の図〕
086鹿児島暴徒戦争之図 〔桜花の下賊徒の女隊奮戦の図〕
087鹿児島征討記 肥後国二重嶺戦争之図
088鹿児嶋征討記聞 〔賊徒の女隊川中にて奮戦図〕
089鹿児島征討記事 〔賊徒の女隊奮戦図〕
090鹿児嶋争戦一覧図絵
091鹿児嶋征討紀聞 〔日向路にて官軍を迎え戦う賊徒〕
092鹿児島勇婦揃
093鹿児嶋英雄揃
094鹿児嶋戦記 〔野津少将、桐野利秋奮戦の図〕
095征韓論之図
096征韓論之図2
097征韓論之図3
098鹿児嶋暴徒追討記 〔田原坂の戦〕
B004鹿児嶋戦記
B006鹿児嶋暴徒追討記
B007鹿児嶋戦争記
B009鹿児島士族熊本城争戦之圖
B010鹿児島暴徒圖
B012鹿児嶋戦記
B014鹿児嶋征討記 官軍地雷火を以て賊軍を破る圖
B018鹿児島縣下甲突川竹柵之図
D106鹿児島女隊力戦圖
D107鹿児島征討記肥後国二重嶺戦争之図
S017奇星之實説
S022勅使鹿児嶋江到着圖
S026征韓論之圖
S027鹿児島勇婦揃
S028 鹿児嶋県暴徒熊本乱入圖
S029鹿児島城戰争之圖
S030鹿児島戰記之内
S031日向霧嶋山激戰之図
S047征韓論之圖
S050鹿児嶋戰爭記
S054鹿児島暴徒図
S057鹿児嶋暴徒追討記
FS002鹿児嶋暴徒追討記
FS003征討御會議之圖
館内限定公開資料u019〔賊軍より奪いし弾薬箱より賊兵出でる図〕
館内限定公開資料u020鹿児島戦記之内 〔賊軍都の城に篭りて評議の図〕
館内限定公開資料u021鹿児嶋暴徒女隊勇戦図 〔熊本城下〕
天保9年8月8日(1838年9月26日) - 大正元年(1912年)9月29日
江戸時代末期から明治時代にかけての浮世絵師。歌川国芳、3代歌川豊国、及び豊原国周の門人。姓は橋本、名は直義。楊洲、楊洲斎、一鶴斎と号す。越後国(現・新潟県)の出身で、家柄は江戸幕府の御家人であったが、初めは歌川国芳に絵を学び、次に3代歌川豊国に学び、2代歌川芳鶴と称して浮世絵師となった。その後、豊原国周門下に転じて、周延と号した。
周延の作画期は、文久2年(1862年)頃から明治40年(1907年)頃までの約45年に及んだ。周延は3枚続の風俗画を得意とし、美人画に優れていた。幕末の動乱期には上野彰義隊に加わり負傷、回天丸で箱館(現・函館市)に逃れ、榎本武揚のもとで官軍と戦ったが、降服して高田藩預かりとなった。明治4年(1871年)に東京に戻り、以降は作画に精励した。
当初は武者絵や「征韓論之図」や「鹿児島城激戦之図」などといった西南戦争絵を描いていたが、明治28年(1895年)から明治30年(1897年)にかけて、江戸っ子が知らない江戸城の「御表」と「大奥」を3枚続の豪華版の錦絵で発行、江戸城大奥の風俗画や明治開化期の婦人風俗画などを描いて、江戸浮世絵の再来と大変な人気を博した。代表作として「真美人」36図、「時代かがみ」、「大川渡し舟」などの他、周延は御家人の時に見聞していて江戸城内の事情に詳しかったため、「千代田の大奥」、「温故東之花」などの江戸時代には描くことができなかった徳川大奥や幕府の行事を記録したシリーズ物は貴重な作品として挙げられる。
また、明治維新後は、外国と対等に付き合うには女性も洋服を着なければならないと、公の場では華族や新政府の高官の夫人、令嬢は華やかなロングドレスを身に纏うようになった。周延は、女性の注目を集めたこのニューファッションを取上げて錦絵に描いたのであった。例として「チャリネ大曲馬御遊覧ノ図」や「倭錦春乃寿」、「女官洋服裁縫之図」などといった宮廷貴顕の図が挙げられ、周延はこれらも多く描いている。これにより、彼は明治期で人気一番の美人画絵師となっている。ただし、この文明開化の新時代に浮世絵に描かれた女性たちは、その髪型や着るものは新しいデザインであっても、その容貌は未だ江戸美人のままであった。美人画以外にも、子供絵、歴史画、役者絵、挿絵などの作品があり、周延の錦絵の作品数は膨大なものになり、数少ない優れた明治浮世絵師の中においても屈指の人であった。
さらに、明治15年(1882年)には第1回内国絵画共進会に出品して褒状を受けている。大正元年(1912年)9月29日死去。享年75。墓所は豊島区雑司が谷の雑司が谷墓地。法名は覚了院直誉義誓居士。
作品 錦絵
* 「千代田の大奥」 大判 東京国立博物館所蔵
* 「東京不忍大競馬之図」 東京国立博物館所蔵
* 「天皇陛下御幸図」 東京国立博物館所蔵
* 「東絵昼夜競 玉藻前」 浮世絵太田記念美術館所蔵 明治19年(1886年)
* 「欧洲管弦楽合奏之図」 浮世絵太田記念美術館所蔵 明治22年(1889年)
* 「温故東の花 第三篇 旧幕府御大礼之節町人御能拝見之図」 浮世絵太田記念美術館所蔵 明治22年(1889年)頃
* 「時代かがみ 明治 慈善会」 浮世絵太田記念美術館所蔵 明治30年(1897年)
* 「鹿児嶋戦記」 早稲田大学図書館所蔵 明治10年(1877年)3月23日
* 「貴顕舞踏の略図」 大判3枚続 神戸市立博物館所蔵
肉筆浮世絵
* 「徳川時代貴婦人之図」 絹本着色 東京国立博物館所蔵
* 「正月図」 絹本着色 東京国立博物館所蔵
* 「江戸婦女図」 絹本着色 東京国立博物館所蔵
* 「春夜往来図」 紙本着色 奈良県立美術館所蔵
* 「月夜往来図」 紙本着色 奈良県立美術館所蔵
楊洲 周延 (2010年11月19日 (金) 07:57 UTCの版)『ウィキペディア日本語版』。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A5%8A%E6%B4%B2%E5%91%A8%E5%
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赤のナンバーは西南戦争錦絵。黄色は異版を示す。