三代目歌川國輝
浮世絵文献資料館によると以下の通り
◯『浮世絵師便覧』p223(飯島半十郎(虚心)著・明治二十六年(1893)刊)
〝国輝(テル)
歌川、◯三世豊国門人、岡田氏、俗称藤四郎、錦画、◯明治〟
◯『浮世絵師伝』p53(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)
〝国輝 三代
【生】 【歿】
【画系】三代豊国門人(後ち国周に学ぶ)【作画期】文久~明治
歌川、後ち豊原を称す、岡田氏、俗称藤四郎、一雄斎と号す。霊岸島に住せり〟
◯『浮世絵師歌川列伝』付録「歌川系図」(玉林晴朗編・昭和十六年(1941)刊)
〝国貞(三世豊国)門人 国輝(三世)〟
「歌川系図」(クリックすると系図が出ます)
◯「幕末明治の浮世絵師伝」『幕末明治の浮世絵師集成』p87(樋口弘著・昭和37年改訂増補版)
〝国輝 三代(くにてる)
岡田藤四郎、歌川のちには、豊原を称した。一雄斎と号し、二代国輝も門人、のちの国周の門に入る。
明治十、二十年代に多少の作画がある〟
◯〔「日本古典籍総合目録」収録なし〕
以上 浮世絵文献資料館 より
http://www.ne.jp/asahi/kato/yoshio/aiueo-zenesi/ku-zenesi/kuniteru3-utagawa.html
ウィキペディア日本語版 によると以下の通り
歌川国輝 (3代目)
「近世史略 武田耕雲斎筑波山之図」 明治24年9月、三代目国輝画。
三代目 歌川国輝(さんだいめ うたがわ くにてる、生没年不詳)とは、明治時代の浮世絵師。
姓は岡田、名は藤四郎。一雄斎、昇旭斎、旭斎と号す。はじめは二代目歌川国輝の門人だったと見られ、のちに豊原国周の門人となっている。明治7年(1874年)に二代目国輝が没してのち三代目国輝を称した。神田に住み、後に深川に移る。作画期は明治10年(1877年)頃から明治29年(1896年)頃にかけてで、国周に絵を学び、明治23年(1890年)からは豊原姓を称した。作品は「東京名所」のシリーズや3枚続の「浅草観世音」、「帝国国会議事堂之図」などのほか相撲絵を残しているが数は少ない。
作品
「東京名所 浅草観世音之図」 大判3枚続 早稲田大学中央図書館所蔵
「近世史略・薩州屋敷焼撃之図」 大判3枚続 早稲田大学中央図書館所蔵
「静御前」 大判2枚続 エルミタージュ美術館所蔵
歌川国輝 (3代目):ウィキペディア日本語版 最終更新 2015年2月13日 (金) 00:00 UTCの版
http://ja.wikipedia.org/wiki/歌川国輝_(3代目)
考察
ウィキペディアに掲載されている「近世史略 武田耕雲斎筑波山之図」 明治24年9月、三代目国輝画を「S033第二軍金州並旅順大勝利」と比べてみるとまず、版元が同じ矢澤久吉である。絵師のサインは似ている。印は前者が歌川派の年玉印で後者が岡田印なので比べられないが、浮世絵文献資料館によると姓名が岡田藤四郎とあるので、「S033第二軍金州並旅順大勝利」はまず間違いなく三代目歌川國輝の作品だろう。
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