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1890年に徳富蘇峰が創刊した国民新聞の従軍画家として親子で戦地に赴いた久保田米僊と金僊の姿をとらえた画である。構図は多分現地には行っていない水野年方が想像で作り上げたものであろう。戦闘のすぐ背後で平服に画板を広げてスケッチしている。浮世絵師ではなく日本画家を海外の戦地に派遣するという行動には「国民の戦争」としての日清戦争に対する徳富蘇峰の力の入れ方が現れているのかもしれない。戦後の三国干渉をへて、平民主義からスタートした国民新聞は帝国主義的国家新聞へとその姿を変えていく。
画像報道の特派員としては「118 我軍牛荘城市街戦撮影之図」に見られるように映画の撮影隊もあったようだ。
朝日日本歴史人物事典(佐藤道信)によると
「久保田米僊 くぼたべいせん
生年: 嘉永5.2.25 (1852.3.15)
没年: 明治39.5.19(1906)
明治期の日本画家。京都生まれ。名は寛,幼名米吉。慶応3(1867)年鈴木百年に師事し,維新後,京都画壇の興隆をめざして明治11(1878)年画学校の設立を建議した。師風を継ぐ雄渾な画風で知られ,内国絵画共進会,内国勧業博覧会で受賞を重ねる。また22年パリ万博で金賞を受賞し渡仏して『京都日報』に寄稿。24年には上京して『国民新聞』に入社し,26年のシカゴ万博,27年日清戦争従軍の記事を報じた。『米僊漫遊画譜』『米僊画談』などの著書があるが,33年に失明。以後は俳句や評論活動を行った。」
「久保田金僊 くぼたきんせん
1875-1954
明治-昭和時代の日本画家。
明治8年9月19日生まれ。久保田米僊(べいせん)の次男。京都府画学校にまなび,父にも師事。日清(にっしん)・日露戦争では従軍記者として戦争画を制作。大正4年文展に「庭の一隅」が初入選。舞台装置,時代考証でも知られた。昭和29年10月9日死去。79歳。京都出身。本名は吉太郎。著作に「日本のをどり」など。」
とある。