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H022威海衛陸上砲臺攻撃之光景

 

函館市中央図書館の仮題は『大寺少将戦死の図』としてある

 

 

清親 印(左図の下部:木肌の模様にまぎれてわかりにくい) 函館市中央図書館 蔵

 

明治廿八年二月 日印刷

   仝年 月 日発行

臨写印刷兼発行者 福田熊次郎 日本ハシ区長谷川丁十九バンチ

 

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函館市中央図書館での分類は以下の通り

タイトル

大寺少将戦死の図

内容説明

 

著者

小林 清親/画

出版者

福田熊次郎

出版年月

18952

ページ数

3枚続

サイズ

35×23cm

請求記号

EE721.8コハ

資料番号

1114234063

 このページの画像は函館市中央図書館のデジタルデータを利用して構成している。

 

画像をクリックすれば拡大画像をご覧頂けます。

フラッシュギャラリーではフルスクリーンでご覧になれます。

ボストン美術館に異版あり

ボストン美術館に異版あり。トリミングされていないので中図上部に記されたタイトルを確認できる。

MFA002 Scene of the Attack on the Land-based Battery at Weihaiwei 

『威海衛陸上砲臺攻撃之光景』である。

ボストン美術館の画像情報は以下の通り

Scene of the Attack on the Land-based Battery at Weihaiwei (Ikaiei rikujô hôdai kôgeki no kôkei)

Kobayashi Kiyochika (Japanese, 1847–1915)

Publisher: Fukuda Kumajirô (Japanese) Japanese Meiji era 1895 (Meiji 28), February

MEDIUM/TECHNIQUE

Woodblock print (nishiki-e); ink and color on paper

DIMENSIONS

Vertical ôban triptych; 37.1 x 75.9 cm (14 5/8 x 29 7/8 in.)

CREDIT LINE

Jean S. and Frederic A. Sharf Collection

ACCESSION NUMBER

2000.254a-c

NOT ON VIEW

COLLECTIONS

Asia, Prints and Drawings

CLASSIFICATIONS

Prints

CATALOGUE RAISONNÉ

Virgin et al., Japan at the Dawn of the Modern Age (MFA, 2001), #56, photo p. 104; Asai, Kinsei nishiki-e sesôshi 8 (1936), pp. 16-7

DESCRIPTION

MFA impressions: 2000.254a-c, 2016.1587

SIGNED

Kiyochika 

清親

PROVENANCE

Various dealers: primarily in London and Tokyo. Purchased between 1985-1999.

比較してみよう。ボストン版は全体に明るいが、北海道版は暗い。これは、デジタル化における撮影にも関わるので、ビューワーで調整して比べてみると、函館版は赤みが少し強く出ているので、右図と中図の爆発と驚く馬の表現がより際立ったものになっている。ボストン版は左図の朧月のもと人力で野砲を運ぶ兵隊の墨がしっかりとコントラストを持っているので、右側の明と左側の暗が、爆発して膨張する軽さと重力で大地に押し付けられる重さの対比をより強調しているようなところがあって、清親の狙いをよく伝えているとも言える。ボストンのシャープなコントラストと函館の重厚な色彩といった対比になろうか。あとは好みの問題だろう。どちらが初刷に近いのかは不明。

唯一の将官戦死者・大寺安純

以下ウィキペディアから引用

 

大寺 安純(おおでら やすずみ、1846年3月9日(弘化3年2月12日) - 1895年(明治28年)2月9日)は、日本陸軍の軍人。最終階級は陸軍少将。

 

経歴

薩摩藩士・大寺七郎の二男として生まれる。幼名は彌七。幼くして父を失う。

20歳にして造士館助教(授讀助)となった。

戊辰戦争従軍の後は陸軍にすすむ。1871年に陸軍少尉に任官して一番大隊分隊長、陸軍中尉として半小隊長、東京鎮台付などを経て、1874年2月から5月にかけて佐賀の乱に出征し、続いて台湾出兵に従軍した。

広島鎮台付、歩兵第12連隊付などを経て、陸軍戸山学校で学ぶ。1877年3月から8月にかけて歩兵第12連隊中隊長として西南戦争に出征した。

歩兵第11連隊中隊長、同連隊副官、歩兵第8連隊大隊長、近衛歩兵第2連隊大隊長、歩兵第3連隊長などを歴任し、1888年11月、陸軍大佐に進級。第2師団・第4師団・第1師団の各参謀長、欧州出張などを経て、日清戦争に出征。1894年11月、陸軍少将。翌年1月、歩兵第11旅団長。

同月20日に栄城湾に上陸し、威海衛に向けて進軍中に砲弾を胸に受けて戦死した。(これは正しいのだろうか?下の方のエピソードにあるように摩天嶺の要塞攻撃中のことだとすると、山東半島のことではないような)日清戦争において唯一の将官戦死者であった。その生前の軍功により、1895年8月、嗣子千代田郎に男爵が授けられた。また1898年には安純にも正三位が追贈された。

栄典

1874年(明治7年)3月8日 - 正七位

1878年(明治11年)6月28日 - 勲五等双光旭日章

1880年(明治13年)6月14日 - 従六位

1884年(明治17年)11月13日 - 勲四等旭日小綬章

1885年(明治18年)7月27日 - 正六位

1890年(明治23年)12月28日 - 従五位[1]

1892年(明治25年)11月29日 - 勲三等瑞宝章

1895年(明治28年)1月21日 - 正五位[2]

1895年(明治28年)2月2日 - 従四位[3]

1895年(明治28年)12月7日 - 靖国神社合祀[4]

1898年(明治31年)10月25日 - 贈正三位[5]

エピソード

「猫将軍」「大寺猫」の異名をもつ。かつて西南戦争の武功を認められ陸軍省で昇進の議が出た際、陸軍中将西郷従道が「その大寺とはあの猫ですか?」と冗談めかして言い、周囲の笑いを誘ったことから以降そう呼ばれるようになったという。結局その場の昇進話は流れてしまった。

性格は豪放磊落の硬骨漢。主張する時は先輩上級の者も眼中になく毒舌を吐くことがあったため、先輩を敬い従う薩摩の気風にあっては疎まれることもあった。

その豪放な性格から、鳥羽・伏見の戦いから奥羽まで隊を同じくして戦った薩摩の河島新之丞、山本権兵衛、柴山矢八らとは親交が深かった。

藩校造士館の助教の職にあったが、薩摩藩主島津忠義の軍制改革で藩が古来の山鹿流兵法からイギリス陸軍式に軍備を改めると、大寺は同僚が止めるのも聞かず造士館を辞し、洋式の軍隊に一兵卒として身を投じた。

鳥羽・伏見の戦いでは夜戦の際、竹林に銃弾が飛び交う中で銃を枕に眠っていたので戦友が揺り起こすと、「敵の姿が見えぬのに撃っても仕方があるまい。臆病な敵はこちらも見えぬのに撃っている。自分は明朝を待って敵の姿が見えてから応戦する。無益な弾丸は一発も放たぬ」と言い、またいびきをかいて眠ってしまったという。

征韓論に破れて西郷隆盛が下野しようとすると、陸軍大尉の大寺は貝殻町の西郷の寓居を訪ねその非を唱えた。しかし聞き入れられることはなく西郷は下野。大寺はそのまま政府軍人として東京に留まった。

西南戦争には政府軍の中隊長として参加。陣頭で「馬鹿者!硝煙を見て避けぬから傷ついたり戦死したりするのだ!」と部下を叱咤し活躍した。が、本人も右耳に銃弾が掠めて傷を負った。戦闘では八代口の戦いで敵の背後を突く攻撃を実施、熊本城との連絡を通じるのに貢献した。

陸軍連隊長として大阪にあるとき、芸妓をあげた宴の席であっても木綿の着物に兵児帯といった実に質素ないでたちで現れ、軍の連隊長とは思えぬその姿は芸妓達に驚かれた。軍服は清潔で実に立派であったが、平服は質素であったといわれる。唯一タバコのみは高級品を愛し、食事も特にこだわらなかったという。

1894年2月に官命により陸軍少将奥保鞏などと欧米視察に出発。フランスを経由してドイツに入り同国の軍備を視察。続いてロシアに入るが日清間の緊張により本国から帰国の指示があり、イギリス、アメリカを経由して9月11日に帰国。同月23日には清へ出征した。ドイツでの軍事視察中、「何を見るためにこの国に来たのか」とのドイツ軍将校の問いに対し、大寺は「貴国の無形の宝が何であるのかを見に来た」と言ったという。

日清戦争開戦時は独眼竜将軍といわれた山地元治師団長率いる第一師団参謀長。広島に大本営が進められた際、大寺は広島での一切の会議に出席せず「これから戦争をするのに会議などして何になる。そんなもの必要がないから私は行かないのだ。」と言っていつも旅館で寝ていたと言う。

当時大寺が参謀長を務めた第一師団は麾下に乃木希典指揮の歩兵第一旅団、秋山好古指揮の騎兵第一大隊などを擁していた。

日清戦争の旅順攻撃では激戦の中、コートのボタンもかけずに高級タバコを燻らせて戦闘を見守っていた。フランスの従軍記者がその泰然たる様子を賞賛すると「私が強いのではなく、タバコの香りが強いのだよ」と笑っていたという。

日清戦争中、米国の従軍記者が「清の兵が精鋭なのは米国が売った銃器が優秀だからだ。その銃が日本兵を傷つけるのは残念だ。」というと、大寺は「いや、米国はもっと最新鋭の武器を清国に売りなさい。そのおかげで新しい武器が無料で我々の手に入るのだからね。」と笑ったという。

旅順攻撃当初、敵陣の見える高台で軍議をしている際、一士官が「敵はこちらに砲撃をしています」と伝えて他の高級将校が皆驚いてその場に伏せても、大寺参謀長はタバコをふかせて上空を掠める砲弾の行方を悠然と眺めていたという。

1894年1月、第2軍の新戦隊として編成された歩兵第11旅団の旅団長となり、1月30日未明から第六師団の左翼隊を形成して磨天嶺砲台を攻撃、占領。幕僚と左翼海岸砲台を臨検しているところを敵戦艦「定遠」からの榴散弾が飛来、大寺旅団長も被弾し(同行した二六新報の従軍記者遠藤又市も死亡)、野戦病院に後送されるも戦死した。

日清戦争での唯一の将官戦死者ということで、その後国内では唱歌『大寺少将』(鳥山啓作詞・鈴木米次郎作曲・1895年)や、版画『威海衛百尺崖所ニ大寺少将奮戦ス』(小林清親・1895年)などが製作された。また大寺家には明治天皇から雪鉄線紋の家紋が贈られたといわれる。

遺品など

大寺少将が被弾の際に着用していた軍服、軍帽は靖国神社遊就館にて展示保管されており、戦死から1世紀を経た現在も見ることが出来る。また、版画『威海衛百尺崖所ニ大寺少将奮戦ス』もあわせて展示されている。

家族・親族

夫人 常(つね・石原信明長女)

嗣子 大寺千代田郎(男爵)

長女・讃 和田連治郎(歩兵大尉)に嫁ぐ

娘婿 田原休次郎(陸軍少佐)[6]・小坂平(陸軍中将)

脚注

^ 『官報』号外「叙任及辞令」1890年12月28日。

^ 『官報』第3467号「叙任及辞令」1895年1月22日。

^ 『官報』第3489号「叙任及辞令」1895年2月19日。

^ 『官報』第3734号「告示」1895年12月7日。

^ 『官報』第4598号「叙任及辞令」1898年10月26日。

^ 1907年8月26日死去(『官報』第7252号、明治40年8月30日)

参考文献[編集]

秦郁彦編『日本陸海軍総合事典』第2版、東京大学出版会、2005年。

福川秀樹『日本陸軍将官辞典』芙蓉書房出版、2001年。

霞会館華族家系大成編輯委員会編『平成新修旧華族家系大成(上巻)』、1996年。

外山操編『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』芙蓉書房出版、1981年。

近世名将言行録発行会編『近世名将言行録 第一巻』吉川弘文館、1934年。

質軒生「嗚呼大寺少将」雑誌『太陽』博文館、1895年。

 

ウィキペディア日本語版 大寺安純 最終更新 2015年10月13日 (火) 03:55 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E5%AF%BA%E5%AE%89%E7%B4%94

軍歌『大寺少将』

以下は

http://gunka02nsn.blog.shinobi.jp/1895%EF%BC%88%E6%98%8E28%EF%BC%89/%E5%A4%A7%E5%AF%BA%E5%B0%91%E5%B0%86

から引用させていただいた歌詞である。

 

作詞 鳥山啓
作曲 鈴木米次郎

雲居を凌ぐ摩天嶺
容易く鳥も越えかねる
地の利を占めし敵塁の
護りは実に堅固なり

守りはよしや堅くとも
破れや破れとく進め
指揮する猛将誰なるぞ
大寺少将旅団長

頭髪上り眦裂け
駿馬を駆って馳せ登る
剛将の下に弱兵の
あらずと言うも理や

硝煙弾雨を凌ぎつつ
手負いと死人乗り越えて
ただひた攻めに攻め寄する
勢いいとも凄まじや

金城湯地と頼みつる
天険無双の摩天嶺
さしもに堅き砲塁も
我が手に今ぞ落ちにける

勇みて挙ぐる勝鬨に
山鳴り谷も応えつつ
黄龍の旗焼き捨てて
輝き渡る日章旗

敵艦はやくこれを見て
撃ち出す砲丸繋げれど
少将いとも悠然と
海上遠く見渡せり

この時敵の破裂弾
空気を切って飛び来り
砦の上に迸り
火炎は四方に散乱す

智勇を兼ねし良将も
痛手にさすが堪えかねて
摩天の嶺の淡雪と
儚く消えて失せにけり

ああ少将よ少将よ
皇国の為に身を捨てて
この敵塁を抜きしより
敵勢とみに挫折せり

この他数所の砲台の
瓦のごとく解けつるも
少将一死を省みぬ
忠勇義烈の結果なり

ああ少将よ少将よ
君をば撃ちし定遠は
幾程なくて我が軍の
雷火に脆く砕かれぬ

ああ少将よ少将よ
身は消えぬれど名を残す
栄誉は長くその山の
嶺より高く仰ぐなり

 


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