『H021淺川騎兵大尉雙臺溝附近水師營二敵ノ大軍ト戦ヒ殊功ヲ樹ツ』を追加した。
浅川敏靖大尉は土城子の激戦で活躍・負傷した。参謀本部編纂の『明治二十七八年日清戦史第3巻』に詳細が記録されている。概要は以下の通り、
北洋艦隊の基地の一つである旅順を攻略するため遼東半島に上陸した第2軍は、半島先端の旅順を目指し行軍する。浅川敏靖大尉は秋山好古少佐率いる騎兵第一大隊の第二中隊長であり、斥候を任務としていた。
11月18日に營城子を出発した捜索騎兵(第一大隊)は土城子あたりで敵と遭遇した。こちらの前衛中隊が退くと、敵は騎兵約五十、步兵約五百を増加して攻勢にはいり猛烈に射撃を開始してきた。騎兵両中隊は必死に防戰したが、敵は衆を恃んで前進し、二・三百メートルの距離まで迫ってきた。こちらの弾薬はもはや尽きようとしていた、午前十一時頃のことである。秋山少佐は、諸方に斥候を派遣したため現在ここにいるものは僅に三十余騎であった第二中隊に命じて右側から突入させた。まず敵の騎兵を駆逐し次に敵の步兵線の左側を衝いて撹乱し一時敵の前進をとめたが、浅川大尉は負傷してしまい、馬も失う。二等卒の木村源松が馬を譲りこれに乗せて、二等軍曹福澤平太郎とともに助け退いた。中尉の嘉悦敏が代りに中隊を指揮して襲撃後は北方に向って背進した。たまたま、步兵第三連隊第三中隊が来て騎兵の右側後に散開しすぐに急射撃を開始して敵の勢を阻んだのでそこで初めて騎兵両中隊は退却することができた。
以上の戦闘が画題である。タイトルにある水師営は後に日露戦争で有名になるが、この時はまだ、純粋に「水師とは清時代に、各地の海岸などに設立されていた水軍を指し、営とは軍の駐屯地のことであった。」(ウィキペディア)というように、清国海軍の駐屯地の意味で使われたのだろう。ただ、後に水師営といえば旅順港の北部となるが、この同じ場所である。