「H007我将校軍議ヲ開キ鳳凰城ヲ破ル」を追加した。前線の戦闘を窺いながら軍議を行う将校たちの図である。
前線で指揮をとるのが立見少将。後方で見るのが佐藤大佐、武田中佐は振り返って気にしている。馬上の福島中佐も双眼鏡で戦況を窺っている。卓上の地図を囲んで軍議に当たっているのが桂中将と大島少将、山縣大将、野津中将という構図である。鳳凰城を攻撃した第五師団は師団長野津道貫で第9旅団と第10旅団で構成されていた。第9旅団は大島義昌少将が旅団長で、広島の第11連隊(西島中佐)と浜田の第21連隊(武田中佐、11月に大佐に昇進)からなる。また、第10旅団は立見尚文少将が旅団長で、丸亀の第12連隊(友安大佐)、松山の第22連隊(富岡大佐)で編成されていた。
このことから、この画での視界内に登場していいのは、以下の人物だけとなる。
また、清国側の大将宋慶は穀軍の統領で九連城で葉志超に変わって指揮をとっていたが、10月26日に日本軍が無血入城した。次の目標である鳳凰城も10月29日の攻撃時には城から火の手が上がっており、清兵は撤退した後であった。その後、旅順陥落後(11月22日)は営口防衛に当たっていたとのことなので、12月1日からの第三師団(桂中将)の海城攻撃を防衛していたようだ。この画の時点で鳳凰城から退却していたのであれば、この画でこそ敵将が逃げる姿を描くべきであったろう。
右図:大将宋慶、立見少将(◯)
中図:佐藤大佐(豊橋の18連隊長平壌→海城→牛荘か)、武田中佐(◯)
左図:桂中将(第3師団長平壌→大孤山→海城→牛荘か)、福島中佐(第一軍参謀)、大島少将(◯)、山縣大将(第一軍司令官)、野津中将(◯)
◯をつけた、4名のみが、現場に登場していいわけだが、戦闘がなかった戦い(変な表現だが)ということなので、この画題自体がそもそも史実とはかけ離れたものである。これこそが日清戦争錦絵の最大の特徴であるといっていい。
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