左側に作られた凱旋門の中で出迎える朝鮮の政治家は國王使・李允用、機務處員 鄭敬源とある。
李允用(1854~1939)は李氏朝鮮末期の親日派の政治家。李完用の兄。
鄭敬源(ジョンギョンウォン 1851〜1898)は 李氏朝鮮末期の中央官僚で東学党の乱が勃発すると湖西宣撫使となる。甲午改革で軍國機務處の会議員に選出され、続いて金弘集内閣の法務協辦となった。「峽遊日記」の著作が有る。
参考 「大河の釣り人」http://www.geocities.jp/nkks437758/kn_b4.html#danshaku4
http://www.dbpia.co.kr/Journal/ArticleDetail/3229504
http://www.yuniljung.com/man/kyungwon.htm#요약
また、鄭敬源に関して、明治27年(1894) 9月 10日付けの大阪毎日新聞には
9月10日
韓廷復た宣撫使を派遣す 曩きに東學黨宣撫使
として忠淸道に派遣せられたる學務協辨鄭敬源は
未だ歸京する能はざる由なるが東學黨蜂起の傾向
あるは獨り忠淸道のみに止まらず全羅、慶尙の兩
道にも續續發生せんとするの形勢あるより朝鮮政
府は鄭敬源一人にて行屆かざるべきを察し更らに
慶尙道の宣撫使として議政府都憲李重夏を差遣す
ることとなりたり右に就き議政府が國王殿下に上奏
せしものを見るに
湖西(忠淸道を云ふ)宣撫使鄭敬源、向以三南(忠
淸、全羅、慶尙の三道を云ふ)兼差、而見今事勢
有難兼行三道、更以兩湖(忠淸、全羅を云ふ)宣
撫使改付標、嶺南(慶尙道を云ふ)宣撫使、別
以都憲李重夏差下、使之馳往、宣布朝廷德意、
仍察吏鄕贓否民生疾苦、一體登聞事分付何如
卽ち向きに派遣せし宣撫使鄭敬源は忠淸、全羅、
慶尙の三道の宣撫使を兼行する筈なりしも今回改
めて忠淸、全羅兩道のみの宣撫使とし慶尙道には
別に李重夏を以て宣撫使として差遣することを上
奏せしなり然るに國王殿下は傳して曰く
當下綸音矣
此綸音とは卽はち詔勅を云ふなり李重夏は該綸音
を奉じて將に慶尙道に派遣せらるべしと云ふ
とある。
http://www.e-donghak.go.kr/sa/listDetSa.jsp?pLevel=3&pDatabaseID=prd_0137&pRecordID=prd_0137_071 より引用
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