S003日本萬歳百撰百笑患吁と愁傷
明治廿八年 月 日印刷
仝年仝月 日發行
印刷兼發行者 松木平吉 東京日本橋区吉川町二番地
患吁と愁傷(くわんうとしうしゃう)骨皮道人
コラヤイ愁傷よ、世の中も変れバ変るものぢや、乃公(わし)も其昔し三國の時代にハ、英雄ぢやとか豪傑ぢやとか云はれて、随分幅を利した(きかした)男ぢやが、今のちやんちやん坊主の清代となつてハ、何奴も此奴も皆な慾の皮の突張て居るばかりで、参詣に来たとて賽銭ハ確かり握った切で中々出居らず、堂が破損(こわれ)たからとて修繕をして呉る者ハなし、是れ此通り頭にハ蜘が巣を作り、足ハ鼠が齧り居る、イヤモウちやん的の不人情にハ実に呆れ返(けへ)るわい、然(そ)ぢやから其罰が當つて、今度の敗軍ハどうぢや、本来を云へバ乃公(おれ)も毛唐人の片割ぢやから義理にも尻押をせにや成らぬのぢやが、先方(さき)が先方なら此方(こつち)も此方ぢや、寧そ(いつそ)評判の良い日本へ行て五月の節句に柏餅の一個(ひとつ)も貰ふて食た方が餘っポと気楽で宜さうぢやとの嘆息に愁傷も共に涙を溢し(こぼし)餅論茶用に御座ります
静岡県立中央図書館での分類は
|
|
このページの画像は静岡県立中央図書館のデジタルデータを利用して構成している。また、データに関しては東京大学史料編纂所錦絵データベースを参考にした。
画像をクリックすれば拡大画像をご覧頂けます。
フラッシュギャラリーではフルスクリーンでご覧になれます。
患吁は関羽であり、愁傷は周倉である。関羽は三国時代の蜀の将軍、劉備に仕えた。三国志演義では代表的な英雄として活躍する。後世の人間からは神格化され関帝として祀られており、神戸や横浜の中華街には関帝廟がある。周倉は蜀の武将で関羽の側近であるが、架空の人物。関羽の死にあたって周倉はその後を追った。関帝廟には関平と共に関羽の従者として祭られている。骨皮道人のこの記事では英雄たちを「わずらいとなげき」という負のイメージの強い言葉に置き換えている。三国志をはじめとした中国の歴史を我がものとして親しんでいた日本が現在の清国のふがいなさを嘆くにとどまらず、更にもう一歩進んでおとしめる気分が濃厚である。ただし中国の一から十までをおとしめるのではなく、近代中国の一側面のみをけなしていくという、まだおとなしいものといえるだろう。その背景には、清が漢民族の国ではなく満州民族の国であったということも大きく影響しているだろうし、アヘン戦争以来清国が諸外国に搾取されてきた現代史をも反映しているだろう。
江戸時代から日清戦争前後までの日本に於ける中国観の変遷は小松 裕による精緻な研究「近代日本のレイシズム:民衆の中国(人)観を例に」(小松 裕 熊本大学)に詳しい。熊本大学学術レポジトリで全文読む事ができる。