西南戦争錦絵美術館に以下の6作品を追加した。
村井静馬(歌川房種)の作品は、静岡県立中央図書館では「おもちゃ絵」というジャンルに分類しており、大判1枚の中に、3枚ないし4枚の絵が並んでいる。(前月とりあげた「S040鹿児嶋戰争の図」では、8分割されている。)画題は、他の西南戦争錦絵と変らないが、線や色づけなど全体に雑で、悪い意味での子供向けという感が横溢している。より細分化して、面子(メンコ、紙製)につながっていくようなデザインでもあるが、それはボール紙が普及する1900年以降のことになるらしい。
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S041西南戦争4図
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村井静馬はウィキペディアによると、「江戸時代末期から明治時代にかけての浮世絵師。 歌川貞房の門人。姓は村井、名は静馬。歌川を称す。桜斎、一笑斎、一瓢斎などと号す。安政(1854年 -
1860年)から明治30年(1897年)頃まで活躍した。幕末には『近江八景』などの風景画の他、芝居絵、源氏絵シリーズなどを描いた。明治に入って『東京名勝』などの開化風俗画、西南戦争関係の錦絵、その他に小説、新聞の挿絵を描き、明治の初年には戯作も手がけている。」(後略)とある。西南戦争錦絵の頃には既にベテランの絵師であったわけだが、この頃までには絵師としてだけでなく筆者、編集者などとしても活躍している。
編者として関係したいくつかの作品の奥付には長崎県士族とあるが、長崎県を構成する藩には佐賀藩、島原藩(島原半島)、大村藩(彼杵地方)、平戸藩(松浦半島・平戸島・壱岐)平戸新田藩、福江藩(五島列島)、対馬府中藩(対馬)、佐賀藩家老の諫早陣屋、交代寄合の五島家の富江陣屋、天領(長崎)と多数あったようで、その中のどの藩の出身かは定かでない。
小森宗次郎、辻岡文助、浦野朝衛門、延寿堂などの出版人との活動が多い。新聞錦絵や写真などメディアの改革が進行中の明治初期にあって、絵師としてだけでなく、編集者、筆者として活動しなければならない必然性があったのかもしれない。再びウィキペディアから引用すると、「珍しい作品では、明治16年(1883年)の『金環蝕の図』、明治20年(1887年)の『日食之図』といった天文現象を扱った報道画が挙げられる。」とあるが、これなどは子供向けの参考書に絵入りで解説を加えていたわけで、そういう知識にも接していく最前線にいたことがうかがえる。旺盛な活動力を持った、器用な知識人といったところだろうか。以下に国会図書館所蔵品の中から拾いあげた作品リストをお示しする。